ジャン・カルヴァン
マルティン・ルターやフルドリッヒ・ツヴィングリと並び評される、
Wikipediaより
『キリスト教綱要』
《16世紀宗教改革のその時に書かれた文章です》
《16世紀宗教改革のその時に書かれた文章です》
この中に彼の死生観が書いてあります。
長いですが、興味深いのでお読みください。
「キリスト教綱要」第3篇9章1-5
どんな患難に遭おうとも、
私たちはその目的をいつも心に留めていなければなりません。
つまり、
私たちが来るべき生活(天国)について・・・
静かに思い巡らすようになるためには、
静かに思い巡らすようになるためには、
現世の生活に心を奪われないような習慣を身に着けることです。
というのは、
主は私たちがこの世を愛する肉欲の愛に、
すぐにも傾いてしまうという強い傾向を持っていることを
知っておられますから、
知っておられますから、
私たちが余りにもその愚かな愛情になじんでしまわないようにと、
その無感覚さから私たちを引き戻し、
目覚めさせるために、
極めて優れた方法を採られます。
私たちの心の目は、
富や権力や名誉などのむなしい輝きにくらまされていますから、
余りに遠いところまでは見通すことができません。
また、
魂全体が肉的な誘惑に引かれていますから、
その幸福を他に求めます。
この悪に対処するために、
主はたえずその子供たち(神の子供たち)に、
悲惨という教訓を与えて、この世の空しさを教えられます。
彼らがこの世に、
十分で確実な平安を期待しないようにと、
主はしばしば彼らの平静さを乱され、
戦争や暴動や盗難やそのほかの危害によって、
荒らされることを許しておられます。
彼らが余りにもむさぼるようにして、
はかなく不確実な富を求めたり、
彼らの持物に頼ったりしないようにと、
時には追放、土地の不毛、大火事、そのほかの方法によって、
主は、
彼らを貧困にしたり、あるいは少なくとも、
彼らを平凡さの中に閉じ込めたりなさいます。
彼らが夫婦の幸福にひたって、
余りに満足しすぎないようにと、
主は、
彼らの妻の意地悪さに悩まされたり、
悪い子孫のために恥をかかされたり、
あるいは子供のないことや、
子供を亡くしたりして苦しむようになさるのです。
しかし、
ここまでのことにおいては、
主が彼らに対して非常に寛大であったとしても、
やはり彼らが虚栄や不当な確信で慢心してしまわないようにと、
主は、
病気や危険によって、
この世の過ぎ行く人の幸福の不安定で、はかないことを、
彼らに示されるのです。
ですから、
私たちは次のことをこの世の生活から学ぶ時にのみ、
十字架の教訓から本当に教えられます。
この世の生活は、
それ自身について考えるなら、数えきれないほど多くの場合に、
落ち着かず、狂暴で、惨めで、全然、幸福なものではありません。
また、
その幸福と言われるものも、
不確実で、はかなく、むなしいもので、
多くの悪と混ぜ合わされていて、質を悪くされているものです。
ですから、
地上では、闘争以外には何も得られませんし、
また期待もできないという結論をすぐに下し、
私たちが栄冠を思うなら、
天に目を向けなければならないことを学ぶのです。
もしも
現世の生活に心を奪われない態度が、
あらかじめ心の中にないならば、
心は決してまじめに未来の生活を求めたり、
また静かにそれを思い巡らしたりなどする気を
起すはずはないからです。
起すはずはないからです。
しかし信者は
人生を嫌悪したり
神への感謝を忘れたりすることのないように、
現世の生活に心を奪われないように慣れる必要があります。
というのは、
この世の生活は、
不幸が満ち満ちているにもかかわらず、
やはりそれは、
軽蔑されてはならない神の祝福の中に、
当然入るものであるからです。
ですから、
もしも私たちがこの世の生活の中に、
少しも神の恵みを見出すことができなかったとしたら、
私たちは、すでに神ご自身に対して、
少なからず神に対する感謝を忘れているという罪を
犯していることになるわけです。
犯していることになるわけです。
ことに信者にとっては、
その全生涯は、彼らの救いが完成されるように、
あらかじめ定められているわけですから、
この世の生活は神の慈しみをあかしするものでなければなりません。
というのは、
神は私たちに対して、
永遠の栄光とう嗣業を示される前に、
それよりも劣ったいろいろなことに、私たちの父である神として、
ご自身を現そうと思われたからです。
これが、
毎日私たちに与えられる神の恵みなのです。
もしも私たちがこの世において、
ある程度まで
天国の栄光のために準備されているということを考えるなら、
天国の栄光のために準備されているということを考えるなら、
そこにこそ、
神に感謝すべきはるかに優れた理由があるのです。
というのは、
主は、
主は、
ついに天で冠を授けられる人々が、
その戦いの困難にも打ち勝たず、勝利も得ないで、
ただ凱旋していくというようなことがないように、
まずは地上で戦いに従わなければならないということを、
定められたからです。
何か最も主の栄光に貢献することであるのか
ということを定めるのは、主ご自身のなさることです。
ということを定めるのは、主ご自身のなさることです。
ですから、もしも私たちが
『主のために生き、主のために死ぬ』(ローマ14:7-8)
のにふさわしいのであれば、
私たちは生死の限界を神の決定にゆだねましょう。
しかしそれは、
死を熱烈に望み、たえずそれを静かに思い巡らし、
来るべき死に比べて現世を軽んじ、
現世が罪に隷属しているために、
主が喜ばれる時には、
いつでも喜んでそれを捨てる態度で、そうするのです。
しかしながら、
クリスチャンであると自ら誇っている人の中でも多くの人が、
死を望む代りに、
かえって死という言葉が話題に上りでもしようものなら、
それが自分に振り掛って来る最大の不幸ででもあるかのように、
震えおののくというのは、
また奇怪千万なことと言わなければなりません。
実際、
私たちの自然の情が、
自分の体の解体を知って驚き恐れるようなことがあったとしても、
それは一向に不思議ではありません。
けれども、
さらにすばらしい慰めによって、
そのような恐れにことごとく打ち勝ち、
そのような恐れにことごとく打ち勝ち、
それを乗り越えて行くのに十分な敬虔の光が、
クリスチャンの胸中にないということは、耐えられないことです。
というのは、
もしも私たちが、この不安定な、堕落した、朽ちやすく、
脆弱な、衰えて行く私たちの肉体という幕屋(住み家)が、
後に永続的な、完全で、朽ちない、天の栄光へと復興させるために、
解体されることを考えるなら、
その信仰は、
私たちの本性が恐れているものを、
かえって望むようにさせはしないでしょうか。
もしも私たちが死によって、
自分自身の国、つまり天国に住むために、
追放から呼び戻されるということを思い返すなら、
そこから何の慰めも得ないなどと言えるでしょうか。
ですから、このことから、
私たちははっきりと結論を下してもよいでしょう。
死と最後の復活の日を喜んで待ち望んでいる人でなければ、
キリストの学校においては、
少しも上達しているとは言えないということです。
「これらのことが起り始めたら、救いを待ち望みなさい。
救いは近付いたのです」(ルカ2:28)
と主は言っておられます。
救いは近付いたのです」(ルカ2:28)
と主は言っておられます。
そういうわけで、
私たちは、もっと健全な判断力を身に着けるようにしましょう。
確かに、盲目で愚かな肉欲という反対はありますけれども、
すべての出来事の中で最も喜ぶべきものとして、
主の到来を熱烈に、ためらうことなく待ち望みましょう。
というのは、
主は私たちをこの底知れぬ悪と不幸の深淵から救い出し、
主の命と栄光のあの祝福された嗣業へと導かれるために、
贖い主として再び来られるのだからです」
「キリスト教綱要」第3篇9章1-5
カルヴァンの死生観には、
クリスチャンがこの世の生活や、持物や、死に対して取るべき態度が、
聖書の光に照らして教えられています。
これが、偉大な宗教改革者ジャン・カルヴァンの死生観です。
彼は、聖書からこのように解説しています。
私たちは、聖書からこれほど深く教えられているでしょうか。
これは、一人カルヴァンだけの死生観ではありません。
私たちもクリスチャンとして彼と同じ考え方をして、
自分の生涯の最後について、
しっかりとした心備えをしておく必要があるのではないでしょうか。
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