Drawing : Mille.Annie Vallotton
前略・・・
聖書がしていることは、苦難の問題に解答を与えることではなく
それをどう見るかの正しい視点を私たちに与えることである。
そこで、
私たちは苦難に身が裂かれそうなときはいつでも
カルバリ(イエスが十字架に架かった所)と呼ばれる丘に登り
その比類ない地点から
人生の惨禍を見渡そうとするのである。
苦難
を耐えられないものとするのは・・・
苦難自体の痛みというよりは
神に関心を持たれていないと感じることである。
天の快適な玉座でくつろいでいて
世界の苦難には無関心な神を私たちは思い描く。
こうした戯画化され嘲りに満ちた神の姿を
十字架は粉々に打ち砕く。
椅子にくつろぐ神ではなく
十字架につけられた神をこそ
私たちは見つめなければならない。
私たちを苦難に遭わせる神は
ご自分もイエス・キリストとして
ひとたび苦しんでくださったお方である。
そして、今でもなお、
私たちと共に苦しんでいるお方であられる。
それでもなお人間の苦難についての疑問符は残る。
しかしその疑問符よりもさらに大きく
もう一つのしるし
「十字架」
というしるしをしっかりと掲げようではないか。
著者
ジョン・ロバート・ワルムスレィ・ストット
[1921/4/27ー2011/7/27]
英国国教会司祭
英国王室のメッセンジャとして知られる
福音派運動の世界的リーダー
オール・ソールズ教会(All Souls Church)の牧師
教会でお会いしたことがあります
Wikipediaより
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。
それは、
私たちが罪を離れ、義のために生きるため。
その打ち傷のゆえに
あなたがたは癒やされた。
《ペテロの手紙第一 2:24》
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