2020年8月27日木曜日

 ライフデザイン:どう年を取るか?



ノーマン・ビンセント・ピール
(1898531日〜19931224日)は、
積極的な考えの概念を提唱したことで知られています。
彼は1932年から1984年まで
ニューヨークにある教会の牧師を務めました。



朝の散歩道で


1990年ごろ発行されたピールの本の中から一つのテーマを取り上げます
30年も前に書かれた内容ですが
今の生き方と比較してもあまり変わらないのではないでしょうか!



どう年を取るか?


 私たちのまわりには、
人生という看板をおろして、
奥座敷でぼんやり暮らしているお年寄りがいます。
自分たちの仕事は終わった、もう自分の出る幕はない、
自分には魅力もないし、やるべきこともない、
体もガタガタだ、そう考えている人たちです。
彼らは自分のことをかわいそうだ、みじめだと思い、
他の人にも同情してほしいと思っているのです。

 その一方で、
年老いてもいつまでも活力をうしなわず、
生きるよろこびを満喫しているように見える高齢者がいます。
自分がもう若くないことを陽気に認め、クヨクヨしない人たちです。
こういう人たちは、
自分には経験もあるし知恵もある、精神的にも成熟している、
創造性も
豊かだし才気も活発だ、そう思っています。
そして、
たいていはそのとおりなのです。

 聖書に約束されている70年という時間をこえてもなお、
目には見えないふしぎな力がこの人たちを駆りたてています。


私たちの齢は70年。健やかであっても80年。


しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。

それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです 

《詩編90:10



 確かに若い人には、ほとばしるようなエネルギーがあります。
ところが残念ながら、
ほんとうの幸せを獲得するために必要な資質のようなものは、
まだ身につけていないのです。
判断力・平衡感覚・知恵・自制心・経験、そういったものです。


 私もずいぶん長い間いろいろな人を見てきましたが、
年配の人のほうが
若い人よりも自己中心的傾向が少ないように感じられるのです。
長く生きてきたぶんだけ、人を愛した経験も豊富だし、
人生についてあれこれ考えることも多かったはずです。
ものごとがうまくいかなかったことも、くじけたこともあったでしょう。
ですから、
年老いた人々は耐えるということを知っているのだと思います。
待つということを知っている、そして穏やかなのです。

 別の言い方をするなら、
「余生」に手がとどくのもまた楽しからずや、
心がけひとつで刺激に満ちた生活も、充実した生活も手にはいる、
ということです。








どう年をとるか
〜10のヒント〜

「どう年をとるか」に関して、
私(ピール牧師)の経験からヒントになりそうなものをつぎにあげてみよう。


過去をふりかえらない
 いつもうしろばかりふりむいているお年寄りがいる。
ときたまふりかえって、楽しかった思い出にひたるのはいいことだ。
でもいつまでも思い出にひたってばかりでは困る。
前を向き、
これからのことを考え、
その可能性に胸おどらせるほうがどれだけいいかわからない。
 サッチェル・ページ選手は、
ふつうの選手よりもずっと長くスタープレイヤーの座にとどまった
黒人野球選手だ。
彼の口癖はこうだった。
 「うしろをふりむいちゃいけない。ふりむけばいろんなものが追いかけてくる」
 ページ選手は「いろんなもの」が何であるかをはっきり言わなかったが、
彼の心にあったのは、そのままにしておいたほうがいい、
すぎ去ったいやな思い出や後悔であることはまちがいない。
 今を一生懸命に生きることをおすすめする。


風とおしのよくない頭はカビがはえる
 セメントのようにガチガチに凝り固まってはいけない。
世の中は変わり、風習は変わり、考え方も変わる。
その変化に対応できる融通性を備えることだ。
信念を変えろというのではない。
新しい考え方も吸収したほうがいいという意味だ。
 自分で考えに考えた意見や価値観を持つのは、おおいに結構だ。
それが正しいなら、時代の変化にもついていけるはずだ。


.「できない」 と思わずに 「できる」と思う
 年をとるにつれて、こんなことを言う人が増えてくる。
「私にはもうできない。年をとりすぎた」
「もう間にあわない」
 ひとつだけ自信を持って言えることがある。
人は、自分で思いこみ、
声に出し、願ったことはたいてい、そのとおりになる。
自分には年齢と関係なくまだまだ元気もあるし、
気力も充実している、そう思えば、そのとおりになるのだ。


孤独にならない
 年をとるにつれて、孤独になっていく人は多い。
孤独というのは、根本的には自分が感じることである。
何にでも興味を持って、いつでも一生懸命な人は、
孤独を感じている暇はないし、自分を哀れんでいる余裕もない。
 孤独から確実に抜け出すには、
困っている人を探して、その人の力になってあげるのもいい方法だ。


五感を退化させない
 ここでは感受性うんぬんよりも、
神が私たち人間に平等にお与えになった五感ということにしぽりたい。
 視力や聴力のようなものは、年をとるにしたがって衰えていくかもしれない。
けれど虫メガネで視力をおぎなえば、
石英の結晶を見たり、花の構造を観察することはできる。
音量を少しあげてお気にいりの音楽を聴くこともできる。
もし近所の人が文句を言ったら、その人たちも呼べばいい。
たまに朝早く起きて朝日が昇るところを見るのもいい。
朝日を観賞するのに虫メガネはいらない。
 年をとったからという理由だけで、五感を退化させてはいけない


年齢を考えずに生きる
 私の友人に、86歳でシカゴの大きなホテルの経営をしている人がいる。
あるとき、私は彼にこう話しかけた。
 「フランク、あなたは一体いくつでしたっけ」
 「なぜそんなことを聞くんだい。部屋やサービスに不満でもあるのかい」
 「そんなことはないけれど・・・。
ただ、私の母といっしょに学校に通ったという話を思い出してね」
 「いいかい、ピール。一生懸命生きればいいんだ。
年のことなど考える必要はない
 そう言ってフランクはこんな話をした。
鏡を見るとき、自分はこう思うことにしている。
そこにうつっているのは「年をとった」フランク・ベーリングではなく、
「年輪を重ねた」フランク・ベーリングだ、と。


人生の看板をおろしてはいけない
 これだけは、はっきり警告しておきたい。
人生の看板をおろしてしまったら、
エネルギーは徐々に消えてしまう。
 ものごとに感動する心をうしなってはいけない。
いつも刺激に満ちたもの、素晴らしいものの中に身をおいておくように。
そして常に新しいことに挑戦してほしい。
 年をとったから何もできないということはけっしてありえない。
私たちはこう習った。
ィチアーノが『レパントの戦い』を描いたのは98歳のときだった。
ベルディは80代で
あのみごとなオペラ『アイーダ』を作曲し、
ゲーテやトルストイは晩年にも偉大な作品を残している、と。
 もちろん私たちは彼らのように才気ほとばしる作品はつくれない。
けれど、生きているかぎり何かを生み出していくことはできる。
 よく頭にたたきこんでおいてほしい。
「人生はあなたが見捨てないかぎり、あなたを見捨てはしない」
ということを。


自分であることを楽しむ
 ストレスの権威:ハンスーセイル医学博士は、
ストレスのほとんどが、本来の自分でない何者かになろうとするところ
からはじまっていると言う。
 けれど、ある程度年をとった人は、
もはや他の人がどう思うか心配する必要もないし、意見も自由に言える。
無理して人とあわせる必要はない。
若いときほど攻撃的になったり、懸命に努力したり、
物質中心主義になる必要性はない。
その気になれば人助けの時間もたっぷりあるし、
またそういうことをしようという気になるのも年をとってからだ。
 自分であることによろこびを見出せるかぎりは、
年をとってもまだまだ何かをはじめられるし、楽しくすごすこともできる。


その日を大切に生きる
 一日一日を大切にしよう。
日々精いっぱい生きるのだ。
「自分にはもう時間がない」という考えは捨てよう。
毎日いくらでもチャンスがあることに目を向け、それを最大限活用するのだ。
そうすれば自分でも驚くようなことができるはずだ。


10. 信仰によって生きる
 【この箇所は私(星野)が加えたテーマです
人は、生きるときに信じるものを持つことが大切です。
それ(信仰)がないと
すべてに不安が付きまとい、確信のない人生を歩む事になるのです。
誰もが手にできるもっとも確実な信仰が
聖書にある信仰です。
聖書のなかで紹介されているイエス・キリストは、
私たちの人生のすべてに関わり、私たちを助け守り導きます。
聖書に親しみ、キリストと共に歩む人生は・・・
この世にあっては、心豊かな日々と
この世を去った後にいくところ=「天国」を保証してくれるのです。








天国の情景

死んだ後の信者は
もはや飢えることもなく、渇くこともなく、
太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。
御座の中央におられる小羊(イエス・キリスト)が
彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。
また、
神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
《ヨハネの黙示録7:16-17》






2020年8月25日火曜日

   ライフデザイン:信仰


信仰
とは
「何か」を仰いで信じる
という事ですね。

「何か」とは
神様のような方なのでしょうか?



国語辞典によれば
信仰とは
①神仏などを信じ崇(あが)めること
②経験や知識を超えた存在を信頼し、自己をゆだねる自覚的な態度
③人を信じ敬うこと
とあります。

しかし私は・・・
信仰という言葉には、もっと人生に関わる深い意味があると思います。
人が生きる意味でとても大切なことだと思います。

何かを信じて生きることと、何も信じないで生きることには
人生の安定性に大きな差が生じるのではないでしょうか?
例えば、
車を運転していて左側を走っていれば、前方から来る車に衝突する事はありません。
自分と相手が、共に
左側通行のルールを守っていて、
免許証をもって運転していることを信じているからです。

これも信仰ある故に
日常生活に安心をもたらす事例です。


このように「信仰」とは、
宗教的な意味だけではなく、私たちが生きる上で必要なのです。


道ばたに咲く


一方
信仰とは
聖書によれば
(以下は聖書の翻訳による表現の違いです)


ヘブル人への手紙 11章1節
[新約聖書



信仰は、望んでいることを保証し、
目に見えないものを確信させるものです。
[新改訳聖書2017]


信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、
見えないものを確証するものです。
[共同訳聖書]


信仰とは、望んでいる事がらを確信し、
まだ見えない事実を確認することである。
[口語訳聖書]


とは、将来に起こることを確かなものとしてつかむ手であり、
まだ見ていないものの確実な証拠を見る目である。
[現代訳聖書]


信仰を、どう定義したらよいでしょう。
それは、願い事が必ずかなえられるという、不同の確信です。
また、何が起こるかわからない行く手にも、望みどうりのことが
必ず待ち受けていると信じて、疑わないことです。
[リビングバイブル]



信仰は望むところを確信し、見ぬ物を眞實とするなり。
[文語訳]


とは、将来に起こることを確かなものとしてつかむ手であり、
待ち望んでいる物の権利証であり、まだ見ていない実物(の所有権)の保証書です。
[エマオ出版訳新約]


Faith  is  the substance  of things hoped for, the evidence of things  not  seen.    
信仰は、望まれたものの実体、見られなかったものの証拠です。
KJV--King James Version英国における欽定訳聖書/1611年にイングランドジェームズ1世の命令で
翻訳された


Faith is being sure of what we hope for and certain of what we do not see.
信仰は、我々が望むことと我々が見ないことのいくつかを確信していることです。
ASV--American Standard Version:KJVのアメリカ版であるアメリカ標準訳聖書


Faith is the assurance of things hoped for, the conviction of things not seen. 
信仰は、望まれたものの保証、見られなかったものの信念です。
ESV--English Standard Version新改訂標準訳(New Revised Standard Version)に代替するもの
として、改訂標準訳(RSV--Revised Standard Version)1971年版を改訳したプロテスタント福音版
2001年に刊行された


Faith is being sure of what we hope for and certain of what we do not see. 
信仰は、我々が望むことと我々が見ないことのいくつかを確信していることです。
[NIV--New International Version:1979年に発刊、英語圏で最も普及した聖書主義の聖書




結論
「信仰」とは?

望んでいるものの実体、
今は見えないその実体が実現する
と確信する事

つまり・・・
先ず望むこと
それは架空なものではなく、
(手で触れることができるような)
具体性のある実体(真に実在するもの)であること。
その望んでいたこと(実体)が実現することに確信をもつこと。
によって!







聖書の例−1

列王記第二5:1~14



アラムの王の将軍ナアマンは、
その主君に重んじられ、尊敬されていた。
それは、が以前に、
彼を通してアラムに勝利を与えられたからであった。
この人は勇士であったが、ツァラアト(悪い皮膚病)に冒されていた。
アラムはかつて略奪に出たとき、
イスラエルの地から一人の若い娘を捕らえて来ていた。
彼女はナアマンの妻に仕えていた。

彼女は御主人に言った。
「もし、ご主人様が
サマリヤにいる預言者(エリシャ)のところに行かれたら、
きっと、その方がご主人様のツァラートを治して下さるでしょう。」
そこで、ナアマンはその主君のところに行き、
イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。
アラムの王は言った。
「行って来なさい。私がイスラエルの王に宛てて手紙を送ろう。」

そこでナアマンは、
銀十タラントと金六千シェケルと晴れ着十着を持って出かけた。
彼はイスラエルの王宛ての次のような手紙を持って行った。
「この手紙があなたに届きましたら、
家臣のナアマンをあなたのところに
送りましたので、彼のツァラアトを治してくださいますように。」
・・・
こうして、ナアマンは馬と戦車でやって来て、
エリシャの家の入り口に立った。
エリシャは、彼に使者を遣わして言った。
「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。
そうすれば、あなたのからだは元通りになって清くなります。」

しかしナアマンは激怒して去り、そして言った。
「何ということだ。
私は、がきっと出て来て立ち、の神、の名を呼んで、
この患部の上で手を動かし、
ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。
ダマスコの川、アマナやパルパルは、
イスラエルの全ての川にまさっているではないか。
こうして、は憤って帰路についた。

そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。
「わが父よ。
難しいコことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、
あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。
あの人
『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。




そこで、ナアマンは下って行き、
神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に7回身を浸した。
すると
彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、
きよくなった。



ナアマンは、預言者エリシャの(神からの)言葉を信じたのです。
そしてそれを実行しました。
故に、癒されたのです。


************************

聖書の例−2

ルカの福音書8−43

12年の間、長血をわずらい、医者たちに財産すべてを費やしたのに、
だれにも治してもらえなかった女の人がいた。
彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。
すると、ただちに出血が止まった。

イエスは、
「わたしにさわったのは、だれですか」
と言われた。



みな自分ではないと言ったので、ペテロは
「先生、大勢の人たちが、あなたを囲んで押し合っています」といった。
しかし、イエスは言われた。
「だれかわたしにさわりました。私自身、自分から力が出て行くのを感じました。」
彼女は隠しきれないと知って、震えながら進み出て御前にひれ伏し、
イエスにさわった理由と、ただちに癒された次第を、
すべての民の前で話した。

イエスは、彼女に言われた。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。
安心して行きなさい。」


その女の人は、
イエスならきっと病を治して下さる!
と最初から信じて行動した結果、
長血は癒されたのです。



************************


現代の信仰の例
〜心臓病を患った男性の体験談〜


ノーマン・V・ピール牧師の著作から
〜信仰が病気を癒いたという実例〜



心臓病からの解放された人生

ある人物が心臓病にかかり、再起不能と宣告されました。
医者からは、「生活の大半を病床で過ごさなければならず、
その期間もそう長くはないだろう」と告げられたのです。
そこで彼は、
このみじめな宣告に耳を傾け、注意深く考えてみることにしました。

ある朝早く目覚めた彼が、聖書を開くと、
次のような言葉がありました。
「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」
(ヘブル人への手紙138)

そこで彼は考えました。
もしイエスが昔、人々を治すことができ、実際に治し、
そして今もその時のままのイエスであるなら、
今日でも病気を治せないはずがないと。
では、なぜイエスは私を癒してくださらないことがあるだろうか。
 彼の中に湧然と信仰が起こったのです。

そこで彼は神に対して、
「癒してくださいますか」
と率直に尋ねました。
すると、
「私に癒す力があると信じるか」
とイエスが言うのが聞こえたように思われたので、
「はい、堅く信じます」
と答えました。彼は目を閉じると、
神が心臓に触れるように感じました。

その日一日、彼は不思議な安堵感を覚えていたのです。
 日がたつにつれて、
確かに体じゅうに元気が出てくるのを感じ、
そしてついにある日、
こう祈りました。

 「神よ、御心でしたら、私は明朝、床屋へ出かけてから、
仕事を再開しようと思っています。
すべてをあなたにお任せします。
あなたの助けにすがって、明日から働き始めます。
どう私をお守りください。
私は十分に元気を回復できると信じています。
ただ万一、
死ぬようなことがあっても、永遠に私はあなたと共にあります。
私にとってはどちらになっても満足です」

 このような落ち着いた気持ちで信じ続けるうちに、
彼は日増しに元気を取り戻していきました。
彼はそれから毎日このやり方を続け、
心臓病と宣告されてから30年間にわたって継続しました。
そして彼は75歳で引退したのです。



私(ピール牧師)の知っている人の中で、
彼ほど活動的で、
人類の福祉のために貢献した人はめったにいません。
彼は自分の肉体的・精神的な力の限度を知っており、
決して無理をしませんでした。
彼は昼食後は昼寝することを習慣にし、
夜は早く寝て朝早く起き、
常に厳格な生活上のルールを守ったのです。

 彼は生涯を通じて、
心配や恨み、過度の緊張といったものとは無縁でした。
彼は一生懸命働きましたが、楽しくも働いたのです。
また、医者も正しかったのです。
彼が若い時代の不摂生を続けていたら、
おそらくもっと前に死んでいるか、少なくとも働けなくなっていたでしょう。
医者の勧告によって彼の病気は、
神の治癒力が仕上げをするところにまで達していたのです。







私たちを力づける神のことば


人にはできないことが、神にはできるのです。
《ルカの福音書18章27節》



イエスは弟子たちに答えられた。
「神を信じなさい。
まことに、あなたがたに言います。
この山に向かって
『立ち上がって、海に入れ』
と言い、
心の中で疑わずに、
自分の言ったとおりになると信じる者には、
そのとおりになります。」
 《マルコの福音書11章22-23節》



ですから、あなたがたに言います。
あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。
そうすれば、そのようになります。
《マルコの福音書11章24節》



求めなさい。そうすれば与えられます。
探しなさい。そうすれば与えられます。
たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれでも、
求める者は受け、
探す者は見出し、たたく者には開かれます。
 《マタイの福音書7章7節》