ノーマン・ビンセント・ピール
(1898年5月31日〜1993年12月24日)は、
積極的な考えの概念を提唱したことで知られています。
彼は1932年から1984年まで
ニューヨークにある教会の牧師を務めました。
朝の散歩道で |
1990年ごろ発行されたピールの本の中から一つのテーマを取り上げます
30年も前に書かれた内容ですが
今の生き方と比較してもあまり変わらないのではないでしょうか!
どう年を取るか?
私たちのまわりには、
人生という看板をおろして、
奥座敷でぼんやり暮らしているお年寄りがいます。
自分たちの仕事は終わった、もう自分の出る幕はない、
自分には魅力もないし、やるべきこともない、
体もガタガタだ、そう考えている人たちです。
彼らは自分のことをかわいそうだ、みじめだと思い、
他の人にも同情してほしいと思っているのです。
その一方で、
年老いてもいつまでも活力をうしなわず、
生きるよろこびを満喫しているように見える高齢者がいます。
自分がもう若くないことを陽気に認め、クヨクヨしない人たちです。
こういう人たちは、
自分には経験もあるし知恵もある、精神的にも成熟している、
創造性も
豊かだし才気も活発だ、そう思っています。
そして、
たいていはそのとおりなのです。
聖書に約束されている70年という時間をこえてもなお、
目には見えないふしぎな力がこの人たちを駆りたてています。
私たちの齢は70年。健やかであっても80年。
しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。
それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです
《詩編90:10》
確かに若い人には、ほとばしるようなエネルギーがあります。
ところが残念ながら、
ほんとうの幸せを獲得するために必要な資質のようなものは、
まだ身につけていないのです。
判断力・平衡感覚・知恵・自制心・経験、そういったものです。
私もずいぶん長い間いろいろな人を見てきましたが、
年配の人のほうが
若い人よりも自己中心的傾向が少ないように感じられるのです。
長く生きてきたぶんだけ、人を愛した経験も豊富だし、
人生についてあれこれ考えることも多かったはずです。
ものごとがうまくいかなかったことも、くじけたこともあったでしょう。
ですから、
年老いた人々は耐えるということを知っているのだと思います。
待つということを知っている、そして穏やかなのです。
別の言い方をするなら、
「余生」に手がとどくのもまた楽しからずや、
心がけひとつで刺激に満ちた生活も、充実した生活も手にはいる、
ということです。
どう年をとるか
〜10のヒント〜
「どう年をとるか」に関して、
私(ピール牧師)の経験からヒントになりそうなものをつぎにあげてみよう。
1. 過去をふりかえらない
いつもうしろばかりふりむいているお年寄りがいる。
ときたまふりかえって、楽しかった思い出にひたるのはいいことだ。
でもいつまでも思い出にひたってばかりでは困る。
前を向き、
これからのことを考え、
その可能性に胸おどらせるほうがどれだけいいかわからない。
サッチェル・ページ選手は、
ふつうの選手よりもずっと長くスタープレイヤーの座にとどまった
黒人野球選手だ。
彼の口癖はこうだった。
「うしろをふりむいちゃいけない。ふりむけばいろんなものが追いかけてくる」
ページ選手は「いろんなもの」が何であるかをはっきり言わなかったが、
彼の心にあったのは、そのままにしておいたほうがいい、
すぎ去ったいやな思い出や後悔であることはまちがいない。
今を一生懸命に生きることをおすすめする。
2. 風とおしのよくない頭はカビがはえる
セメントのようにガチガチに凝り固まってはいけない。
世の中は変わり、風習は変わり、考え方も変わる。
その変化に対応できる融通性を備えることだ。
信念を変えろというのではない。
新しい考え方も吸収したほうがいいという意味だ。
自分で考えに考えた意見や価値観を持つのは、おおいに結構だ。
それが正しいなら、時代の変化にもついていけるはずだ。
3.「できない」 と思わずに 「できる」と思う
年をとるにつれて、こんなことを言う人が増えてくる。
「私にはもうできない。年をとりすぎた」
「もう間にあわない」
ひとつだけ自信を持って言えることがある。
人は、自分で思いこみ、
声に出し、願ったことはたいてい、そのとおりになる。
自分には年齢と関係なくまだまだ元気もあるし、
気力も充実している、そう思えば、そのとおりになるのだ。
4. 孤独にならない
年をとるにつれて、孤独になっていく人は多い。
孤独というのは、根本的には自分が感じることである。
何にでも興味を持って、いつでも一生懸命な人は、
孤独を感じている暇はないし、自分を哀れんでいる余裕もない。
孤独から確実に抜け出すには、
困っている人を探して、その人の力になってあげるのもいい方法だ。
5. 五感を退化させない
ここでは感受性うんぬんよりも、
神が私たち人間に平等にお与えになった五感ということにしぽりたい。
視力や聴力のようなものは、年をとるにしたがって衰えていくかもしれない。
けれど虫メガネで視力をおぎなえば、
石英の結晶を見たり、花の構造を観察することはできる。
音量を少しあげてお気にいりの音楽を聴くこともできる。
もし近所の人が文句を言ったら、その人たちも呼べばいい。
たまに朝早く起きて朝日が昇るところを見るのもいい。
朝日を観賞するのに虫メガネはいらない。
年をとったからという理由だけで、五感を退化させてはいけない。
6. 年齢を考えずに生きる
私の友人に、86歳でシカゴの大きなホテルの経営をしている人がいる。
あるとき、私は彼にこう話しかけた。
「フランク、あなたは一体いくつでしたっけ」
「なぜそんなことを聞くんだい。部屋やサービスに不満でもあるのかい」
「そんなことはないけれど・・・。
ただ、私の母といっしょに学校に通ったという話を思い出してね」
「いいかい、ピール。一生懸命生きればいいんだ。
年のことなど考える必要はない」
そう言ってフランクはこんな話をした。
鏡を見るとき、自分はこう思うことにしている。
そこにうつっているのは「年をとった」フランク・ベーリングではなく、
「年輪を重ねた」フランク・ベーリングだ、と。
7. 人生の看板をおろしてはいけない
これだけは、はっきり警告しておきたい。
人生の看板をおろしてしまったら、
エネルギーは徐々に消えてしまう。
ものごとに感動する心をうしなってはいけない。
いつも刺激に満ちたもの、素晴らしいものの中に身をおいておくように。
そして常に新しいことに挑戦してほしい。
年をとったから何もできないということはけっしてありえない。
私たちはこう習った。
ティチアーノが『レパントの戦い』を描いたのは98歳のときだった。
ベルディは80代で
あのみごとなオペラ『アイーダ』を作曲し、
ゲーテやトルストイは晩年にも偉大な作品を残している、と。
もちろん私たちは彼らのように才気ほとばしる作品はつくれない。
けれど、生きているかぎり何かを生み出していくことはできる。
よく頭にたたきこんでおいてほしい。
「人生はあなたが見捨てないかぎり、あなたを見捨てはしない」
ということを。
8. 自分であることを楽しむ
ストレスの権威:ハンスーセイル医学博士は、
ストレスのほとんどが、本来の自分でない何者かになろうとするところ
からはじまっていると言う。
けれど、ある程度年をとった人は、
もはや他の人がどう思うか心配する必要もないし、意見も自由に言える。
無理して人とあわせる必要はない。
若いときほど攻撃的になったり、懸命に努力したり、
物質中心主義になる必要性はない。
その気になれば人助けの時間もたっぷりあるし、
またそういうことをしようという気になるのも年をとってからだ。
自分であることによろこびを見出せるかぎりは、
年をとってもまだまだ何かをはじめられるし、楽しくすごすこともできる。
9. その日を大切に生きる
一日一日を大切にしよう。
日々精いっぱい生きるのだ。
「自分にはもう時間がない」という考えは捨てよう。
毎日いくらでもチャンスがあることに目を向け、それを最大限活用するのだ。
そうすれば自分でも驚くようなことができるはずだ。
10. 信仰によって生きる
【この箇所は私(星野)が加えたテーマです】
人は、生きるときに信じるものを持つことが大切です。
それ(信仰)がないと
すべてに不安が付きまとい、確信のない人生を歩む事になるのです。
誰もが手にできるもっとも確実な信仰が
聖書にある信仰です。
聖書のなかで紹介されているイエス・キリストは、
私たちの人生のすべてに関わり、私たちを助け守り導きます。
聖書に親しみ、キリストと共に歩む人生は・・・
この世にあっては、心豊かな日々と
この世を去った後にいくところ=「天国」を保証してくれるのです。
天国の情景
死んだ後の信者は
もはや飢えることもなく、渇くこともなく、
太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。
御座の中央におられる小羊(イエス・キリスト)が
彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。
また、
神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
《ヨハネの黙示録7:16-17》
《ヨハネの黙示録7:16-17》