2020年8月25日火曜日

   ライフデザイン:信仰


信仰
とは
「何か」を仰いで信じる
という事ですね。

「何か」とは
神様のような方なのでしょうか?



国語辞典によれば
信仰とは
①神仏などを信じ崇(あが)めること
②経験や知識を超えた存在を信頼し、自己をゆだねる自覚的な態度
③人を信じ敬うこと
とあります。

しかし私は・・・
信仰という言葉には、もっと人生に関わる深い意味があると思います。
人が生きる意味でとても大切なことだと思います。

何かを信じて生きることと、何も信じないで生きることには
人生の安定性に大きな差が生じるのではないでしょうか?
例えば、
車を運転していて左側を走っていれば、前方から来る車に衝突する事はありません。
自分と相手が、共に
左側通行のルールを守っていて、
免許証をもって運転していることを信じているからです。

これも信仰ある故に
日常生活に安心をもたらす事例です。


このように「信仰」とは、
宗教的な意味だけではなく、私たちが生きる上で必要なのです。


道ばたに咲く


一方
信仰とは
聖書によれば
(以下は聖書の翻訳による表現の違いです)


ヘブル人への手紙 11章1節
[新約聖書



信仰は、望んでいることを保証し、
目に見えないものを確信させるものです。
[新改訳聖書2017]


信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、
見えないものを確証するものです。
[共同訳聖書]


信仰とは、望んでいる事がらを確信し、
まだ見えない事実を確認することである。
[口語訳聖書]


とは、将来に起こることを確かなものとしてつかむ手であり、
まだ見ていないものの確実な証拠を見る目である。
[現代訳聖書]


信仰を、どう定義したらよいでしょう。
それは、願い事が必ずかなえられるという、不同の確信です。
また、何が起こるかわからない行く手にも、望みどうりのことが
必ず待ち受けていると信じて、疑わないことです。
[リビングバイブル]



信仰は望むところを確信し、見ぬ物を眞實とするなり。
[文語訳]


とは、将来に起こることを確かなものとしてつかむ手であり、
待ち望んでいる物の権利証であり、まだ見ていない実物(の所有権)の保証書です。
[エマオ出版訳新約]


Faith  is  the substance  of things hoped for, the evidence of things  not  seen.    
信仰は、望まれたものの実体、見られなかったものの証拠です。
KJV--King James Version英国における欽定訳聖書/1611年にイングランドジェームズ1世の命令で
翻訳された


Faith is being sure of what we hope for and certain of what we do not see.
信仰は、我々が望むことと我々が見ないことのいくつかを確信していることです。
ASV--American Standard Version:KJVのアメリカ版であるアメリカ標準訳聖書


Faith is the assurance of things hoped for, the conviction of things not seen. 
信仰は、望まれたものの保証、見られなかったものの信念です。
ESV--English Standard Version新改訂標準訳(New Revised Standard Version)に代替するもの
として、改訂標準訳(RSV--Revised Standard Version)1971年版を改訳したプロテスタント福音版
2001年に刊行された


Faith is being sure of what we hope for and certain of what we do not see. 
信仰は、我々が望むことと我々が見ないことのいくつかを確信していることです。
[NIV--New International Version:1979年に発刊、英語圏で最も普及した聖書主義の聖書




結論
「信仰」とは?

望んでいるものの実体、
今は見えないその実体が実現する
と確信する事

つまり・・・
先ず望むこと
それは架空なものではなく、
(手で触れることができるような)
具体性のある実体(真に実在するもの)であること。
その望んでいたこと(実体)が実現することに確信をもつこと。
によって!







聖書の例−1

列王記第二5:1~14



アラムの王の将軍ナアマンは、
その主君に重んじられ、尊敬されていた。
それは、が以前に、
彼を通してアラムに勝利を与えられたからであった。
この人は勇士であったが、ツァラアト(悪い皮膚病)に冒されていた。
アラムはかつて略奪に出たとき、
イスラエルの地から一人の若い娘を捕らえて来ていた。
彼女はナアマンの妻に仕えていた。

彼女は御主人に言った。
「もし、ご主人様が
サマリヤにいる預言者(エリシャ)のところに行かれたら、
きっと、その方がご主人様のツァラートを治して下さるでしょう。」
そこで、ナアマンはその主君のところに行き、
イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。
アラムの王は言った。
「行って来なさい。私がイスラエルの王に宛てて手紙を送ろう。」

そこでナアマンは、
銀十タラントと金六千シェケルと晴れ着十着を持って出かけた。
彼はイスラエルの王宛ての次のような手紙を持って行った。
「この手紙があなたに届きましたら、
家臣のナアマンをあなたのところに
送りましたので、彼のツァラアトを治してくださいますように。」
・・・
こうして、ナアマンは馬と戦車でやって来て、
エリシャの家の入り口に立った。
エリシャは、彼に使者を遣わして言った。
「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。
そうすれば、あなたのからだは元通りになって清くなります。」

しかしナアマンは激怒して去り、そして言った。
「何ということだ。
私は、がきっと出て来て立ち、の神、の名を呼んで、
この患部の上で手を動かし、
ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。
ダマスコの川、アマナやパルパルは、
イスラエルの全ての川にまさっているではないか。
こうして、は憤って帰路についた。

そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。
「わが父よ。
難しいコことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、
あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。
あの人
『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。




そこで、ナアマンは下って行き、
神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に7回身を浸した。
すると
彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、
きよくなった。



ナアマンは、預言者エリシャの(神からの)言葉を信じたのです。
そしてそれを実行しました。
故に、癒されたのです。


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聖書の例−2

ルカの福音書8−43

12年の間、長血をわずらい、医者たちに財産すべてを費やしたのに、
だれにも治してもらえなかった女の人がいた。
彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。
すると、ただちに出血が止まった。

イエスは、
「わたしにさわったのは、だれですか」
と言われた。



みな自分ではないと言ったので、ペテロは
「先生、大勢の人たちが、あなたを囲んで押し合っています」といった。
しかし、イエスは言われた。
「だれかわたしにさわりました。私自身、自分から力が出て行くのを感じました。」
彼女は隠しきれないと知って、震えながら進み出て御前にひれ伏し、
イエスにさわった理由と、ただちに癒された次第を、
すべての民の前で話した。

イエスは、彼女に言われた。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。
安心して行きなさい。」


その女の人は、
イエスならきっと病を治して下さる!
と最初から信じて行動した結果、
長血は癒されたのです。



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現代の信仰の例
〜心臓病を患った男性の体験談〜


ノーマン・V・ピール牧師の著作から
〜信仰が病気を癒いたという実例〜



心臓病からの解放された人生

ある人物が心臓病にかかり、再起不能と宣告されました。
医者からは、「生活の大半を病床で過ごさなければならず、
その期間もそう長くはないだろう」と告げられたのです。
そこで彼は、
このみじめな宣告に耳を傾け、注意深く考えてみることにしました。

ある朝早く目覚めた彼が、聖書を開くと、
次のような言葉がありました。
「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」
(ヘブル人への手紙138)

そこで彼は考えました。
もしイエスが昔、人々を治すことができ、実際に治し、
そして今もその時のままのイエスであるなら、
今日でも病気を治せないはずがないと。
では、なぜイエスは私を癒してくださらないことがあるだろうか。
 彼の中に湧然と信仰が起こったのです。

そこで彼は神に対して、
「癒してくださいますか」
と率直に尋ねました。
すると、
「私に癒す力があると信じるか」
とイエスが言うのが聞こえたように思われたので、
「はい、堅く信じます」
と答えました。彼は目を閉じると、
神が心臓に触れるように感じました。

その日一日、彼は不思議な安堵感を覚えていたのです。
 日がたつにつれて、
確かに体じゅうに元気が出てくるのを感じ、
そしてついにある日、
こう祈りました。

 「神よ、御心でしたら、私は明朝、床屋へ出かけてから、
仕事を再開しようと思っています。
すべてをあなたにお任せします。
あなたの助けにすがって、明日から働き始めます。
どう私をお守りください。
私は十分に元気を回復できると信じています。
ただ万一、
死ぬようなことがあっても、永遠に私はあなたと共にあります。
私にとってはどちらになっても満足です」

 このような落ち着いた気持ちで信じ続けるうちに、
彼は日増しに元気を取り戻していきました。
彼はそれから毎日このやり方を続け、
心臓病と宣告されてから30年間にわたって継続しました。
そして彼は75歳で引退したのです。



私(ピール牧師)の知っている人の中で、
彼ほど活動的で、
人類の福祉のために貢献した人はめったにいません。
彼は自分の肉体的・精神的な力の限度を知っており、
決して無理をしませんでした。
彼は昼食後は昼寝することを習慣にし、
夜は早く寝て朝早く起き、
常に厳格な生活上のルールを守ったのです。

 彼は生涯を通じて、
心配や恨み、過度の緊張といったものとは無縁でした。
彼は一生懸命働きましたが、楽しくも働いたのです。
また、医者も正しかったのです。
彼が若い時代の不摂生を続けていたら、
おそらくもっと前に死んでいるか、少なくとも働けなくなっていたでしょう。
医者の勧告によって彼の病気は、
神の治癒力が仕上げをするところにまで達していたのです。







私たちを力づける神のことば


人にはできないことが、神にはできるのです。
《ルカの福音書18章27節》



イエスは弟子たちに答えられた。
「神を信じなさい。
まことに、あなたがたに言います。
この山に向かって
『立ち上がって、海に入れ』
と言い、
心の中で疑わずに、
自分の言ったとおりになると信じる者には、
そのとおりになります。」
 《マルコの福音書11章22-23節》



ですから、あなたがたに言います。
あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。
そうすれば、そのようになります。
《マルコの福音書11章24節》



求めなさい。そうすれば与えられます。
探しなさい。そうすれば与えられます。
たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれでも、
求める者は受け、
探す者は見出し、たたく者には開かれます。
 《マタイの福音書7章7節》









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