2018年5月13日日曜日

ライフデザイン:羽鳥明師のメッセージ−Ⅰ


昨年(2017年)4月10日
に96歳で天に帰られた
羽鳥 明牧師のショートメッセージが
整理していたら出てきましたのでご紹介します。
3章からなりますので、逐次ご紹介します

出所:太平洋放送協会



嵐を生き抜く

有名な聖歌に、
「人生の海の嵐にもまれ来しこの身も」(聖歌総合版489番)
とありますが、人生には、嵐が吹きつけ、暗闇が襲う時があります。
そんな時、そこを生き抜かなくちゃなりません。
どのようにしてでしょうか。

コリント人への手紙第丁16章13ー14節にはこうあります。
「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。
男らしく、強くありなさい。
いっさいのことを愛をもって行いなさい」
ここに生き方の三つのポイントが示されていると思うのです。

第一、目を覚ましていなさい。
第二、堅く信仰に立ちなさい。
第三、いっさいのことを愛をもって行いなさい。

「祈れ」「信じ続けよ」「愛し抜け」これですね。



祈り

まず第一に、「目を覚ましていなさい」。
もちろんこれは、夜遊びして寝ないということではないのです。
英語の聖書では「目を覚まして祈り続けなさい」と書いてあります。
大海の真中で、嵐に遭った経験がおありでしょうか。
私はあります。

昔のことですが、太平洋を八千トンの貨物船で渡った時のことです。
台風に巻き込まれ、真っ暗闇の荒れ狂う海の上を、
まさに
一枚の枯葉のようにもてあそばれる。
何十メートルとさえ思われる大波のてっぺんまで持ってゆかれる船体が、
ブルブルッと震えてギーツときしる。
もう生きた心地がしません。
私は船室の中にいるのが不安で、レインコートに身を固め、
吹きつける風と雨と波の中を、
無謀にも、よろけよろけ操縦室の前まで行ってみたのです。

ガラス戸に顔を押しつけて中を見ますと、
操舵手が、舵をとっています。
その横に、船長の端正な顔が見えました。
船長が私を見て微笑み、まっすぐ私のところに来て、こう言いました。

「私たちがこうやって目を覚ましていますから、
ご心配なくお休みください」
その温かく力強い船長の言葉が、今も耳に残っています。
ああでもない、こうでもないと慌てふためくのではなく、
しっかり座り、
天地万物を造りこれを支配していらっしゃる神様とお話をし、
祈りお任せする人生、これほど力強い人生はありません。
嵐を生き抜く生き方の第一、
それは絶えず神様に祈り続ける生き方じゃないでしょうか。



信仰

第二は「堅く信仰に立ちなさい」
鳥と獣の仲間の間を行ったり来たりしたコウモリの話をご存知でしょう。
鳥の仲間の形勢がいいと鳥の仲間入りし、
獣軍の状勢がいいと獣の仲間になったコウモリは、
結局、
どちらの仲間からもつまはじきにされたのです。

嵐を生き抜くためには、神の側についたら、
生涯どんなことがあっても神の側につききる、
貫き通すことです。

使徒パウロの生き方がそうでした。
「神様がいらっしゃる」
「救い主キリストは、私を罪と死から救うた
めに十字架の上で死んでくださった」と、
キリストにお会いした時から確信しつづけた彼の生涯は、
どんな中にあっても圧倒的な勝利の生涯となったのです。
彼はこう告白しています。
「私は……牢に入れられたことも多く、
またむち打たれたことは数えきれず、
死に直面したこともしばしばでした。
ユダヤ人から39のむちを受けたことが五度、
石で打たれたことが一度、
難船したことが3度あり、
一昼夜、海上を漂ったこともあります。

幾度も旅をし、
川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、
都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
労し苦しみ、たびたび睨られぬ夜を過ごし、飢え渇き、
しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました」
(コリント人への手紙第二 112327節)

「しかし、私たちは……これらすべてのことの中にあっても
圧倒的な勝利者となるのです」(ローマ人への手紙 8章37節)と。

神がいないと言うなら
徹底的に神様がいないような生き方をしてごらんなさい。
果たしてそこに、力が、喜びが、幸せがあるか。
説教者ムーディーは言いました。
「無神論のゆえに幸福になった無神論者に、たったのひとりも会ったことがない」
神がいらっしゃる。
しかも愛していてくださる。
この信仰に徹底したとき、確かに嵐を生き抜くことができるのです。





さて、第三に「いっさいのことを愛をもって行いなさい」。
愛で貫く生き方です。
人間の生き方は、
つぎはぎだらけの生き方が多いと思うのですが、いかがでしょう。
ある時には気持ちよく親切な、その同じ人が、
ある時はずる賢く儲け、
ある時は恨みがましく復しゅう心に燃えたりします。

しかし聖書は、
「いっさいのことを愛の実践で貫きなさい」と言うのです。
イエス様のなさった「良いサマリヤ人」の例え話をご存知ですか。
エルサレムからエリコヘ旅した人が途中で強盗に会い、
身ぐるみはぎ取られたばかりか、
全身打ち叩かれ半死半生のまま放り出され、
ただうめいていました。
ところがそこを通りかかったエルサレムの神殿に仕える宗教家、
祭司とレビ人は、そのうめき声を聞き、
その瀕死のあり様を見ながら、
道の向こう側を知らん顔で通り過ぎていったのです。

ご覧なさい。
民が供え物を持って神殿に来れば、いかにも愛と同情に満ちた顔をし、
親切そうにしていたのに、今は知らん顔です。
こういうつぎはぎだらけの生き方こそ、
最も卑しい生き方じゃないでしょうか。

しかし、
反対側からやって来たサマリヤ人はどうだったでしょう。
うめき声を聞きつけ、かけ寄り、
大切なオリーブ油、ぶどう酒を惜しげもなく使い、傷の手当をしました。
そして
彼を家畜に乗せ宿屋まで引き返し、
そこで、すべての必要な費用を払って看病し、
宿屋の主人にさらに金を渡して世話を頼み、
「また帰って来ます。必要な費用はその時払うから」
と言って出て行ったというのです。
 
徹底した愛ではありませんか。
「あなたも行ってこのようにしなさい」と
イエス・キリストはおっしゃるのです。
暴力や金で支配するのではない。
百パーセント愛で貫く生き方こそ、
嵐の中を生き抜く生き方ではないしょうか。





我が家の水仙







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